平成29年度(2017年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第1問B-6
解答番号6
正解:4
配点:3
解説:
選択肢1
正しい。
選択肢2
正しい。
選択肢3
正しい。
選択肢4
横須賀ではなく横浜(桜木町)なので誤り。
どちらも神奈川県であるが、横須賀は横浜よりも南で三浦半島にある。
2017年度 日本史B 本試験 解答番号7
平成29年度(2017年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第2問A-1
解答番号7
正解:4
配点:2
解説:
アは蘇我。
飛鳥寺(法興寺)は蘇我馬子が建立した寺。
6世紀末は推古朝で、蘇我馬子が実権を握っていた。
大伴氏は6世紀前半に大伴金村が失脚し、672年の壬申の乱で再び活躍するようになる。
イは郡司。
地方豪族は律令制では地方官の郡司に任じられる階層となった。
同じ地方官の国司は中央から派遣されることが多く、郡司の上に立った。
三谷寺は備後国(広島県)三谷郡の郡司が建てた寺とされる。
第2問A-1
解答番号7
正解:4
配点:2
解説:
アは蘇我。
飛鳥寺(法興寺)は蘇我馬子が建立した寺。
6世紀末は推古朝で、蘇我馬子が実権を握っていた。
大伴氏は6世紀前半に大伴金村が失脚し、672年の壬申の乱で再び活躍するようになる。
イは郡司。
地方豪族は律令制では地方官の郡司に任じられる階層となった。
同じ地方官の国司は中央から派遣されることが多く、郡司の上に立った。
三谷寺は備後国(広島県)三谷郡の郡司が建てた寺とされる。
2017年度 日本史B 本試験 解答番号8
平成29年度(2017年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第2問A-2
解答番号8
正解:2
配点:3
解説:
7世紀後半は大化の改新の頃から天智天皇、壬申の乱を経て天武・持統朝の頃に当たる。
選択肢1
西大寺は765年、奈良時代後半の称徳天皇のときに平城京に造られた。
よって、誤り。
大官大寺は7世紀後半の天武天皇のときにその名になり、後には大安寺となった。
選択肢2
正解。
選択肢3
冠位十二階は603年、7世紀初めの推古天皇のとき。
よって、誤り。
選択肢4
『帝紀』『旧辞』などをもとに、天武天皇のときから新たな歴史書の編纂が始まった。
また、大王の系譜は『帝紀』のほうで、『旧辞』は伝承などを記録したもの。
よって、誤り。
第2問A-2
解答番号8
正解:2
配点:3
解説:
7世紀後半は大化の改新の頃から天智天皇、壬申の乱を経て天武・持統朝の頃に当たる。
選択肢1
西大寺は765年、奈良時代後半の称徳天皇のときに平城京に造られた。
よって、誤り。
大官大寺は7世紀後半の天武天皇のときにその名になり、後には大安寺となった。
選択肢2
正解。
選択肢3
冠位十二階は603年、7世紀初めの推古天皇のとき。
よって、誤り。
選択肢4
『帝紀』『旧辞』などをもとに、天武天皇のときから新たな歴史書の編纂が始まった。
また、大王の系譜は『帝紀』のほうで、『旧辞』は伝承などを記録したもの。
よって、誤り。
2017年度 日本史B 本試験 解答番号9
平成29年度(2017年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第2問A-3
解答番号9
正解:3
配点:3
解説:
選択肢a
渡来人や技術と関連するのは、陵戸ではなく品部などなので、誤り。
陵戸は陵墓を守る賤民のことで、律令制で五色の賤の一つとなる。
選択肢b
正しい。
選択肢c
正しい。
白村江の戦いの前後に、滅んだ百済から多くの渡来人が来た。
選択肢d
8世紀は朝鮮半島沿いの北路ではなく南路を取ったため、誤り。
7世紀後半に白村江の戦いで新羅は日本などに勝利し、その後は唐の勢力を追い出し朝鮮半島を統一していた。
8世紀の日本は新羅との緊張関係や唐と新羅の対立などがあり、朝鮮半島を経由して唐に行くことはなくなっていた。
第2問A-3
解答番号9
正解:3
配点:3
解説:
選択肢a
渡来人や技術と関連するのは、陵戸ではなく品部などなので、誤り。
陵戸は陵墓を守る賤民のことで、律令制で五色の賤の一つとなる。
選択肢b
正しい。
選択肢c
正しい。
白村江の戦いの前後に、滅んだ百済から多くの渡来人が来た。
選択肢d
8世紀は朝鮮半島沿いの北路ではなく南路を取ったため、誤り。
7世紀後半に白村江の戦いで新羅は日本などに勝利し、その後は唐の勢力を追い出し朝鮮半島を統一していた。
8世紀の日本は新羅との緊張関係や唐と新羅の対立などがあり、朝鮮半島を経由して唐に行くことはなくなっていた。
2017年度 日本史B 本試験 解答番号10
平成29年度(2017年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第2問B-4
解答番号10
正解:5
配点:3
解説:
I
785年。
藤原種継暗殺事件は奈良時代の末期、桓武天皇のときに起きた。
式家は光仁天皇の擁立に功があり復権し、その子の桓武天皇のときは式家の種継が長岡京造営の中心になるなど優遇されていた。
早良親王は桓武天皇の弟でこの事件までは皇太子だった。
藤原種継は藤原広嗣の甥でもある。
II
842年。
承和の変は平安時代の前期、仁明天皇のときに起きた。
三筆は橘逸勢と嵯峨天皇、空海の三人。
桓武天皇の子の嵯峨天皇ときに平城太上天皇の変が起こり、式家は失脚していた。
嵯峨天皇は子の仁明天皇に譲位して上皇として権力を持っていたが、亡くなるとともに承和の変が起こる。
III
740年。
藤原広嗣の乱は奈良時代の中頃、聖武天皇のときに起きた。
藤原四子が次々と病死し、その一人である式家・藤原宇合の子の広嗣が橘諸兄政権に反発して大宰府で挙兵した。
この乱の影響で、式家は南家の藤原仲麻呂や道鏡の政権のときには力を持てなかった。
第2問B-4
解答番号10
正解:5
配点:3
解説:
I
785年。
藤原種継暗殺事件は奈良時代の末期、桓武天皇のときに起きた。
式家は光仁天皇の擁立に功があり復権し、その子の桓武天皇のときは式家の種継が長岡京造営の中心になるなど優遇されていた。
早良親王は桓武天皇の弟でこの事件までは皇太子だった。
藤原種継は藤原広嗣の甥でもある。
II
842年。
承和の変は平安時代の前期、仁明天皇のときに起きた。
三筆は橘逸勢と嵯峨天皇、空海の三人。
桓武天皇の子の嵯峨天皇ときに平城太上天皇の変が起こり、式家は失脚していた。
嵯峨天皇は子の仁明天皇に譲位して上皇として権力を持っていたが、亡くなるとともに承和の変が起こる。
III
740年。
藤原広嗣の乱は奈良時代の中頃、聖武天皇のときに起きた。
藤原四子が次々と病死し、その一人である式家・藤原宇合の子の広嗣が橘諸兄政権に反発して大宰府で挙兵した。
この乱の影響で、式家は南家の藤原仲麻呂や道鏡の政権のときには力を持てなかった。