平成28年度(2016年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第2問A-1
解答番号7
正解:2
配点:2
解説:
アは土偶。
縄文時代のものなので土偶でよい。
埴輪は古墳時代のものなので違う。
イは乾漆像である東大寺法華堂不空羂索観音像【ふくうけんじゃくかんのんぞう】。
乾漆像は漆【うるし】で麻布などを固めてつくった像。
奈良時代の天平文化の仏像に多くみられる。
法隆寺百済観音像は木像で、飛鳥時代のものとされる。
2016年度 日本史B 本試験 解答番号8
平成28年度(2016年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第2問A-2
解答番号8
正解:1
配点:2
解説:
Xは正しい。
注1から「売」は女性の名の末尾につくことがわかるので、「猿売」は女性と考えてよい。
租は女性にも課せられたが、庸と調は男性のみに課せられた。
Yは正しい。
多賀城は宮城県にあった城柵で、陸奥国(東北地方のうち青森県・岩手県・宮城県・福島県のあたり)の国府でもあった。
その場所から見つかった漆紙文書が計帳であった。
これらのことから、東北地方で使われていたこの計帳を漆の保存容器の蓋紙として再利用していたと考えることができる。
第2問A-2
解答番号8
正解:1
配点:2
解説:
Xは正しい。
注1から「売」は女性の名の末尾につくことがわかるので、「猿売」は女性と考えてよい。
租は女性にも課せられたが、庸と調は男性のみに課せられた。
Yは正しい。
多賀城は宮城県にあった城柵で、陸奥国(東北地方のうち青森県・岩手県・宮城県・福島県のあたり)の国府でもあった。
その場所から見つかった漆紙文書が計帳であった。
これらのことから、東北地方で使われていたこの計帳を漆の保存容器の蓋紙として再利用していたと考えることができる。
2016年度 日本史B 本試験 解答番号9
平成28年度(2016年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説
第2問A-3
解答番号9
正解:2
配点:3
解説:
選択肢1
桓武天皇のときには蔵人頭【くろうどのとう】はまだなかった。
桓武天皇の子の嵯峨天皇のときに設置された。
よって、誤り。
蔵人頭は天皇の秘書のような役割を果たした令外官。
藤原冬嗣は810年、藤原薬子の変のときに嵯峨天皇の蔵人頭となった。
選択肢2
正解。
選択肢3
醍醐天皇のときには摂政も関白も置かれていなかった。
よって、誤り。
醍醐天皇が天皇になったときには関白だった藤原基経はすでに死去しており、その子の藤原時平は左大臣になったが摂関にはならなかった。
結果的に摂関は置かれず、天皇が自ら政治を行なう親政が続いたため、その治世は延喜の治と称された。
藤原忠平【ふじわらのただひら】は藤原時平の弟で、時平死後に実権を握ったが醍醐天皇の子の朱雀天皇【すざくてんのう】のときになってから摂政関白となった。
朱雀天皇の弟の村上天皇の初期にも関白となったが、忠平の後は摂関が置かれずに天皇親政が行なわれたため天暦の治と称された。
選択肢4
藤原頼長が起こした乱は保元の乱。
よって、誤り。
保元の乱では藤原頼長は崇徳上皇を立てて清和源氏の源為義と結んだが、為義の子の義朝や平清盛は敵対する後白河天皇についてしまった。
源義朝は保元の乱では勝利したが、藤原信頼とともに起こした平治の乱では平清盛に敗れた。
第2問A-3
解答番号9
正解:2
配点:3
解説:
選択肢1
桓武天皇のときには蔵人頭【くろうどのとう】はまだなかった。
桓武天皇の子の嵯峨天皇のときに設置された。
よって、誤り。
蔵人頭は天皇の秘書のような役割を果たした令外官。
藤原冬嗣は810年、藤原薬子の変のときに嵯峨天皇の蔵人頭となった。
選択肢2
正解。
選択肢3
醍醐天皇のときには摂政も関白も置かれていなかった。
よって、誤り。
醍醐天皇が天皇になったときには関白だった藤原基経はすでに死去しており、その子の藤原時平は左大臣になったが摂関にはならなかった。
結果的に摂関は置かれず、天皇が自ら政治を行なう親政が続いたため、その治世は延喜の治と称された。
藤原忠平【ふじわらのただひら】は藤原時平の弟で、時平死後に実権を握ったが醍醐天皇の子の朱雀天皇【すざくてんのう】のときになってから摂政関白となった。
朱雀天皇の弟の村上天皇の初期にも関白となったが、忠平の後は摂関が置かれずに天皇親政が行なわれたため天暦の治と称された。
選択肢4
藤原頼長が起こした乱は保元の乱。
よって、誤り。
保元の乱では藤原頼長は崇徳上皇を立てて清和源氏の源為義と結んだが、為義の子の義朝や平清盛は敵対する後白河天皇についてしまった。
源義朝は保元の乱では勝利したが、藤原信頼とともに起こした平治の乱では平清盛に敗れた。